北国の巻

バンドとしては4度目の札幌。
ハコに着くなり、荷物を降ろして寿司屋へ走る。
みな目が血走っている。
飛行機の中で「寿司が食いたい」と、うわ言のように繰り返していた関西人の末路は
リハーサルを後回しで寿司を食うという傍若無人な行動に落ち着いた。


「寿司を食わねば死ぬ」みたいな強迫観念でもあるのか。
しかし、北海道の寿司は本当に旨いから困りものだ。
そしてたらふく寿司を食ったかと思えば、次は打ち上げでジンギスカン食い放題。
T BOLANの大合唱の傍ら、ラム肉に顔を突っ込み気絶している者もいる。
ライブ遠征のはずが、いつもこうしてカロリーオーバー行脚の如く胃袋を酷使するのだった。

札幌の若葉は5〜6年前に沖縄で初めて出会い、すぐさま意気投合した。
それからは毎年のように札幌に呼んでくれている。
本当にありがたいことだ。

 

大阪からは古い仲のモヒカンファミリーズ。

近頃はめっきりご無沙汰だったのに札幌で共演とは面白い。

ピンチオブスナッフは何年ぶりだろうか。

ベースのささやんは8年ほど前からの付き合いになる。

ボーカルのタイガーくんは会うたび旅の話をしている。

ホイッスルのまっつんは今度釣りに行く約束をした。

そして毎度共演のブリ、オイバルカンズ、ベンベ。

DJは腐れ縁フーミン、ディスカバーズのカマさん、エム―ルの筧さん。

毎回遊びに来てくれるお客さん。

サポミのソウタも久しぶりに会えた。

遠く離れた北海道のはずが、まるで地元にいるような感覚である。


DJで来ていたフーミンが、結婚を機に故郷である富良野へ移住したようだった。
はっきりいって羨ましい。
北海道の大自然の中で、自由奔放に釣りをしたりキャンプをしたりして暮らしたい。
いつでも気軽にバックカントリーでスノーボードをしたい。
ファーガソンのオールドトラクターにまたがり、広大な畑を移動したい。
開放的な国道をのんびりツーリングしたい。
それらは私が随分前から思い描いている将来図である。
ジジイになったらいつか実現させたいと願っていた小さな夢が
フーミンの富良野プレゼンのせいで若くして一気に大きく膨らんでしまった。
とりあえず、一度遊びに富良野へ行くとしよう。

とにかく言えることは、やはり北海道はいつ行っても楽しく、人も温かい。
あれは何故なんだろうか。
もともとは移住民が集まり発展した土地ゆえに、みな道外の人間にも分け隔てなく優しいと聞いたことはある。
真相は分からないが、また早く戻ってきたいと思わせてくれる何かが北海道にはあることは間違いない。


ウッシー
 日常の巻

嗚呼、旅に出たし。
もうかれこれ2年以上は日本から出ていない。
なぜ海外なのか?
海外への一人旅は、私にとって一つの「リセット」だ。
リセットなんていうと、どうしてもマイナスイメージが先行してしまうが
私の場合はこれ以上ないほどにプラス思考である。

人間というのは傲慢なもので、自分を取り巻く環境や日常に慣れてしまうと
まるで自分がすべてを知った風に勘違いし、思い上がってしまうものだ。
まぁ少し大袈裟ではあるが、とにかく慢心は人の成長を阻害するといっても過言ではない。

言葉も通じず、文化も違い、何なら命の価値でさえ違う場所。
そんな異国の地へ、それも一人っきりで踏み出せば
その不遜な慢心は否応なく砕け散り、怖気づき、ときに自分の情けなさに立ち尽くす。
普遍的な日常の中にいれば、なかなかそんな経験はできるものではない。
傍から見れば無意味な行動だとは思うが、私はそういった瞬間が好きである。
そんな瞬間にこそ、妙な高揚を覚える。

一線を越えると本当に身ぐるみ剥がされ殺されるのがオチではあるが
その線引きをしながら、純粋に冒険を楽しむ。
アドレナリンがジリジリと毛穴から吹き出し、動悸が激しくなる。
国内の旅ではなかなか味わえない感覚。
それが私にとって「一人旅の在り方」だ。

よく世間じゃ「自分探しの旅」なんて言うが、そんな輝かしいものではない。
一人旅を通して見つかる自分なんてものは、ただ単に今まで「見ないように」してきた自分である。
自身を偽り欺いてきた何かが、突如として目の前に現れる。
ほんの少し「日常」から外れるだけで、人はこんなにも蚤のように小さく震えることがあるのかと
到底口では表現しようのない無情が胸にどっしりと圧し掛かる。

こんなことを繰り返していると、日常の中で起こるトラブルや悩みなど
大抵は馬鹿らしくて笑って過ごせるのである。


ウッシー
 連休の巻

世間は大型連休。
長い人だと9連休ぐらいあるだろうか?
エリートたちは挙って海外リゾートへ飛び立ち、バカンスに明け暮れる。
プールサイドで寝そべり、カクテルを舐ぶる。
ゴルフにカジノに女遊び。
貧乏人の僻みはただただ大きくなるばかり。

まぁ、人混み嫌いの私は、わざわざ自分から人の多い場所へ行こうとも思わない。
ましてやGWで人のごった返す場所へ行くなど、飛んで火に入る何とか。
気の合う仲間と、人のいない静かな湖畔で釣りをしながらキャンプでもしている方が楽しいのだ。
ジジイ臭いと言われればそれまでだが、上辺だけ取り繕ったような遊びは昔からあまり興味がない。
「遊びは真剣に」これが私のポリシーである。

現代人は承認欲求と自己顕示欲の塊のようだ。
「誰かに見てもらいたい」「評価してほしい」「自身の存在意義を認めてほしい」
そういった欲求が昔よりもはるかに渦巻いている。
そもそも自慢と承認欲求は全く別物である。
自慢なんてものはただの自己満足だが、承認欲求は行き過ぎると自己否定に成り得る。

たとえばSNSで、自身の投稿に対して大きな反響があると存在意義を大きく認識し、
逆に反応がなかったりすると、途端に不安に襲われ、存在意義を疑ってしまう。
大袈裟に聞こえるかもしれないが、そういった脳内構造が成り立っているユーザーはいるのである。
実際、「今とても楽しいからSNSにアップする」ではなく、「SNSのネタにするために楽しいことをやる」という
何ともよくわからない本末転倒な構図になりつつある。
これは絵に描いたような承認欲求と自己顕示欲の肥大で、
周りからの評価や目線だけが気になり、人生の本質とやらをすっかり忘れているパターンだといえる。

生き物の存在意義なんてものは大小ではなく、0か1みたいなもので、この世に生きていれば誰だって1なのだ。
それが世界中に必要とされる人物でも、生きる価値のないようなボンクラであってもだ。
1しかないものを、頑張って100にしようとしたりするから余計な悩みが増えるのである。

たかだかSNSの普及で自分の生き方を見失ってしまうのは悲しい。
誰にどう思われるかを先行して考え、共感性を求め、自分の本来の満足を蔑ろにするのは馬鹿げている。
他人のバーターではなく、自分の思うように生きることが「人生を楽しむ」最も簡単な方法ではないか。


ウッシー
 運転の巻

まだまだ夜は冷える。
朗らかな陽気が続いたかと思えば、また春陰が覆っていく。
綻んだばかりの新芽も、冷たい雨に曝されて散ってゆくのは儚いものだ。
まさに諸行無常の響きあり。

 

先日、釣りの帰り道にスピード違反で捕まり、なけなしの金が飛んでいってしまった。
あんな見通しのよい2車線の直線を誰が50キロで走るというのか。
そんなことをしたら忽ち大渋滞ではないか。
来月は自動車税やら何やら払わなければならんのに。
バイクなんて故障したまま動きやしない。
何のために税金を払っているのかわからん。

 

しかし、都市圏の休日におけるペーパードライバー率は異常である。
いわゆるサンデードライバーというやつだ。
ゴールデンウィークともなると尚更で非常にストレスが溜まる。

 

別に自身の運転を過信しているつもりは一切ないが、とにかく最近へたくそが多い。
女性ならまだしも、いい歳したオッサンなら運転ぐらいスムーズにこなしてほしいところだ。
昔は運転が下手な男はモテなかったものだが。

これはただの持論と偏見だが、車の運転が下手なやつは仕事もできない。
車庫入れとか縦列駐車とか、そういう技術的なことではなくて
状況判断能力があるかどうかの話だ。
それがなければ、そりゃあ仕事もできまい。

 

まぁ、時代錯誤なのかもしれんが、世の中をもう少しスムーズに動かすためにも
せめて運転技術の水準を上げていただきたいところである。


ウッシー
 表現の巻

『表現の自由』というのは何とも便利な言葉である。
胡散臭いアーティスト達は猫も杓子もこの言葉を使いたがるが
所詮、「わがまま」である。

 

私自身、「個人」の表現は自由であるべきだと思っている。
思想、信条、言論、出版など、多岐にわたる「表現」は国によって干渉されるべきではない。
なぜなら、それら表現を受け入れるかどうかも個人の自由だからだ。


しかし、事実的に第三者が被害を被る場合、社会的モラルに反する場合、国家の干渉を受けて仕方がない。
人に迷惑がかかった時点で、それはアートでもなければ表現でもなく、ただの迷惑行為である。
これらを履き違え、表現の自由という空想に酔い痴れる輩が多いことこの上ない。

 

おっさんが公然で陰部をさらけ出し、
「これはアート表現だ」と言ったところで誰も共感などせんだろう。
ところが、1000人いれば1人ぐらいは共感してしまうやつが現れる。
するとそこには妙な協調性が生まれ、勝手に自分たちで気持ち良くなってしまう。


人はたったひとつの同調で1000の反駁を見失ってしまうのだから怖いものだ。

気を衒った言動が個性なのだと信じ込み、自己を正当化しながら他人を傷つける。
本人は気付くすべもなく、大義名分に背中を押されて進み続ける。


人間は自由に弱い。
然るべくルールがなければ、人間などいとも簡単に道を踏み外してしまう。
枠があるからこそ、芸術の道筋は生まれるのではないだろうか。


ウッシー
 路の巻

冴える冬の夜。
清閑な都会の暗がりに、団地の灯が規則正しく並んでいる。
澄んだ空気の中、はっきりとした青白い輪郭が、その距離感を奪っていく。
あの灯、ひとつひとつに家族があり、そこにドラマがあるのだと考えると
なんとも言いようのない感慨が胸を走っていく。

盈満な人生とは程遠く、まして独り身のこの菲薄な日々に目を向けると
時折、他人の幸せが鋭い刃物のように心を突き刺してくるのだ。

地位も名誉も人望もなく、おまけに金もなし。
どこで道を間違えたのか、自分でもさっぱりわからぬ。
保育園、幼稚園、小学校、高校と、みなと同じように生活してきたはずだ。
同じように通学して、同じように授業を聞いていたはずなのに
いつしかあいつはエリート、我は根なし草の木偶の坊。
なぜだ。

そりゃあ、幼少の頃にしっかりと勉学に励んでいたかどうかが問題だろうが、
あいにく勉強は嫌いだったし、カルトじみた教育を受けた記憶もない。
そもそも、親や教師の教育方法など関係なかったようにも思う。
勉強しろと言われれば反抗し、言われなければとことんやらない。
本来、どこかで危機意識が働き、真っ当な社会人に向けて方向転換するものだろうが、
私の場合はそのまま我が道を進んでしまった。
後ろを振り返れば誰もおらず、気づいたときには
全く知らない場所を歩いている状況であった。

人生とは開拓。
道を作るというのは、単なる軌跡にすぎない。
ほかの誰かに歩いてもらう気など毛頭ないし、誰かのために道を作るわけでもない。
ただ、どうせいつか死ぬなら、自分だけの道を歩きたいものである。


ウッシー
 謹賀新年の巻

謹賀新年。
殊更に挨拶したところで、コイツは正月早々コラムを書くほど暇人なのかと思われるのも癪ではある。
まぁ事実、暇なのだが。

 

ここ数年、周りの友人知人が段々と結婚しだしたのを皮切りに、
年末年始は自宅で大人しく過ごすようにしている。
朝までドンチャン騒ぎをするような歳でもないし、
食事に誘ってみても「家族と過ごすから」なんて言われて
妙な罪悪感と閉塞感に苛まれながら年末を過ごすのは御免だ。

暇といえば暇だが、これこそが贅沢な時間なのだろうと実感する。
予定も何ひとつ入れず、しばらく時間を好きなように使えるのだから、
これ以上に幸せなことはない。

 

休みの日でも普段より早起きして遊ぶタイプだし、
まったく予定のない一日というのは、一年を通して実は少ない。
だからあまりにも暇だと「どこか遊びに行かなければ」と
妙な強迫観念に迫られるのだが
年末年始に限っては、とことん暇を持て余そうという次第である。

 

下らないテレビ番組も、見飽きた映画も読み飽きた小説も、
心なしか早春の麗しい気配と相まって、私の胸の奥をすっと撫でるように
退屈さを紛らわせてくれる。

しかし、この長い休みが終わっていく虚無感というのが頭の片隅にずっとあって
夏休み終盤の学生のように、どこか落ち着かず、
変な焦りを感じながら幾許もない新年の夜を静かに過ごしているのだ。

 

結局、実家へ帰省することはなかった。
正月だからと、変に畏まって息子面するのも気が引ける。
お年玉をくれるなら話は別だが、そんなこと言おうものなら蹴り出されそうだし、
寧ろこっちがせがまれそうで油断できない。

この歳ならば、それなりの金額を渡して
「のんびり温泉旅行でも行ってこい」と親孝行の一つでもするべきなのだろうが
生憎、そんな金も心も持ち合わせるほど人間できていない。

 

さて、日常生活に戻ってしまう前に
もうしばらくこの気鬱な休日を味わうとしよう。


ウッシー
 小舟の巻

陽の落ちる早さ、一日の過ぎゆく早さに迫られて
これではあっという間に歳を食って耄碌してしまいそうだと不安に駆られる。


無辺の暗闇にぼんやり浮かぶ蝋燭の燈が、段々と、そして着実にその揺らめきを落としているのは間違いない。
明るみは変わらずとも、もうほんの僅かな時を迎えれば、確実にそれは闇に飲まれてゆく。


人生など、蝋燭のようなものだ。
轟々と燃えていても、微風のひとつで簡単に消えてしまう。

人生が楽しいからこそ、それがいつか終わってしまう虚しさというのがある。
それが50年後かもしれないし、もしかしたら明日かもしれない。
そんなこと、誰も知るよしがない。


ただ、いつまでも続くと思っていたこの人生に、不確かな終焉が見えはじめたことは確かだ。
別に、病気になったとか、そういうことではない。
単純に、これまで無縁だった死生観が、年齢とともにその姿をちらつかせるようになった。
たかだか30過ぎの青二才のくせに、こんな甲斐無い心境に左右されるなど滑稽ではあるが。

 

何となく、これからの人生について、舵をとる方向が分かってきたように思う。
ただ風に押されるがまま進んでいた一艘の小舟が、今自らの意思を持って大海を進んでいる。
立派な社会人からすれば「今更か」と笑われるだろうが、
高卒の出来損ないがこの歳で気付けたのだから幸運である。

 

墨を突いて社会のはみ出し者となり、果ては行雲流水のごとく奔放に彷徨ってきた我が人生。
にっちもさっちもいかない時もあったが、まぁ不思議と何とかなるものだ。


ウッシー
 生存の巻

大丈夫、私はこうして生きている。
SNSの類もやっていないため、直接会っている人間以外は私の生存確認などできないであろう。
まぁ、本来はそんなものだ。
能動的にコミュニケーションを取らねば、人間の関わりなど脆い。
大袈裟かもしれんが、こうして人は疎遠になってゆくのかと、妙な儚さを覚える。

 

私はというと、近頃はもはや釣り人と呼べるほどに、釣り道具を車に積んでは縦横無尽に走り回っている。
琵琶湖、淀川には毎週末通っている始末。
ついには、なけなしの金を叩いてカヤックを購入し、少年時代から憧れていたカヤックフィッシングに没頭しているのだ。
大自然の中、鏡面のように煌めく湖にプカプカと浮かび、コーヒーとタバコを嗜みつつ、 釣り糸を垂れる。

 

あぁ、なんと素晴らしい響きなのだ。
文字に起こしただけでも、男心がくすぐられる。
そんなこんなで、近頃は釣り関係の人間しか顔を合わせていないような気もするため
これじゃいかんと思いながらも、この充実したフィッシングライフを静かに満喫しておるわけである。

 

ガキの頃の私が見たらさぞ驚くことだろう。
釣りもスケートボードもバンドもバイクもその他諸々、まだやっているのかと。
おまけに大人になるにつれ増えてきた趣味の数々が、私の経済を圧迫してゆく。
睡眠も身銭も削って、生き急ぐように遊び呆けている私は
一体何を目指しているのだろうか。

 

ところが周りを見渡してみれば、そんな私よりもなお充実した人生を送ってらっしゃる諸先輩方がたくさんいるのである。
それも30,40ではない。
世間では初老と呼ばれる男たちが、子どものように目を輝かせて遊んでいる。
これは本当に素晴らしいことだ。
それと同時に、今の若者の大部分が大人しくあることに悲しくもある。
不良がいない。
ワルそうな格好してるのは多いが、不良がいない。
一体何をしているのだ。
一度しかない人生、遊ばねば意味がない。
寝る間を惜しんででも遊ぶべし。


ウッシー
 富豪の巻

よくテレビなんかで、大富豪や会社社長が大きく散財しているのを見て
「あんなに贅沢しやがって!ムキー!」と僻んでしまう人も多いだろうが
ハッキリ言って世の中の一定数以上の大富豪には、
もう一ケタも二ケタも多く、ガンガン散財してもらわねば困る。

 

たとえば年収10億の富豪が、一度の晩飯に10万使ったなんて聞くと
とんでもない贅沢のように感じてしまうが、
年収500万のサラリーマンに換算すれば、晩飯に200円しか使っていないのと同じである。
年収200万のフリーターが風俗で2万使う方がケタ違いに贅沢をしているではないか。

 

とにかく、何度も口酸っぱく言っているように
金を使わない金持ちが一番の害だ。
これは僻みでも妬みでも何でもな い。
稼いだからには使ってもらわねば採算が合わない。


私も含め、低所得者が躍起になって消費したところで、
世の中に回る金など高が知れているのだから。

富の一極集中する東京だけではなく、
各地の地方自治体が少しでも潤うほどの消費がなければ
格差縮小などさらさら夢物語である。


ウッシー

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